それは、僕が中学2年の頃。
小学校の高学年に、僕は、ラーメンをおやつ代わりに買い与えられる『少年少女世界文学全集』を寝転がって読みながら、毎日体重を増やしていた。
その甲斐あって、中学で無謀にも入部したバスケットボール部の練習では、ノロノロとランニングの列の最後尾で、ほんとうにヒーヒー言いながら走っていた。
「なんで、バスケ?」
幼児のころから走るのが大好きで、ふくよかになっていても短距離走もそこそこ早かった。
くわえてすぐに天狗になりやすい僕には、バスケもたやすく順応可能だと高をくくっていた。
練習のきつさについて行けなくなりながら、友達を誘った手前、部活をやめようとは思っていなかった。
バスケのために早朝自分で弁当をつくってきている、といった先輩の話を顧問の先生から聞いたりするまでは、けっこう適当に参加しているといった感じだったと思う。
夏休みいっぱい郷里に帰っていたりした。
家から中学校までは結構遠く、ゴルフ場のフェンスにそったアップダウンのある坂道を自転車通学していたこともあって、中学3年頃になるとかなりスリムなっていく。
レギュラーにこそなれなかったが、中学3年生の最後まで継続できた。
僕にしては、ちょっぴり頑張ったと褒めてやりたいですが、それはまたのお話し。
大切なのは、当時の僕に与えたフォークソングの影響。
部活の練習と僕の頭の中で鳴り続ける、フォークソングのミックスが当時始まったばかりの僕の青春の色を表しているように思える。
”おらは死んじまっただ〜” 出会いはザ・フォーク・クルセダーズで
フォークソングとの出会いは、中学校1年生かな?
土曜のお昼に放映されていた吉本興業の『吉本新喜劇』に、ザ・フォーク・クルセダーズが登場して、
♪ おらは死んじまっただ〜 ♪
と、倍速声での(あの、ヘリウムガスを吸って歌うような、)コミカルな歌「帰って来たヨッパライ」※を歌った時からだと思う。
当時流行のラジオ深夜放送を聞いていなかった僕は、ザ・フォーク・クルセダーズとは遅めの出会いだったと思う。
♪ 天国良いとこ 一度はおいで
酒はうまいし ねーちゃんはきれいだ ♪
コミックな歌詞・曲と変な声、関西弁でしかる怖い神様。
テレビの前で、もう笑えない、お腹が苦しい、とジタバタしました。
※ 「帰って来たヨッパライ」 作詞:フォーク・パロディ・ギャング(松山猛・北山修) 作曲:加藤和彦 編曲:ザ・フォーク・クルセダーズ 1967年
悲しくてやりきれない
そのザ・フォーク・クルセダーズは、翌年、サトーハチロー作詞の「悲しくてやりきれない」を発売。
僕はフォークソングに僕の魂のありどころを教えてもらったような気がした。
胸にしみる空のかがやき
今日も遠くながめ涙をながす
悲しくて
悲しくて
とてもやりきれない
このやるせないモヤモヤを
だれかに告げようか
白い雲は流れ流れて
今日も夢はもつれわびしくゆれる
悲しくて
悲しくて
とてもやりきれない
この限りないむなしさの
救いはないだろうか
深い森のみどりにだかれ
今日も風の唄にしみじみ嘆く
悲しくて
悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる苦しさは
明日もつづくのか
サトーハチロー作詞 加藤和彦作曲 ありたあきら編曲 1968年
(参照)
サトーハチローの言う、心のやるせなさ、むなしさ、苦しさがいかなるものなのはは、説明されない。
情景もそれ示す言葉は、青くかがやく空、ながれる白い雲、深い森のみどり、風の唄だけである。
「若者が」とは書いていないが、フォークソングにのせる詩であるから、おそらく若者が、自己の成長、恋愛、社会への思いを胸に、しかしそれを打開できない自分をみつめながら、無力感や閉塞感や圧迫感に苦しんでいる姿がそこにあるのだろう。
制限を超えたい、状況を打開したい、そのもえたぎる情熱は、様々な障害を前に、苦しさ与え続ける。
空や雲や森や風は、自然のままで歌い手を包んでいることに変わりはない。
その中で、その日常性と対比するように、自分は悲しみつづけ、悩み続けている。
そんな自分の孤立感は、その悲しみを誰かに告げたい思いになる。
しかし、だれかにつげることもなく、葛藤する日々が続く。
肉体的成長と精神的成長のアンバランスの中で、青年は限界を制限にかえて突破していくことで、大人になろうとする。
そのことに正面から向かい合うと、こんな詩が生まれるのかもしれない。
また、この詩の具体性を持たないところが、様々な人の様々な想像に結び就き、自分がなんだか大変な状況になったときに、しんみりストレスを慰めてくれる。
そんなところも、沢山のファンを生む要因になっていたかと思う。
聴いた当時の僕は、人生なんてこれからという青春の入り口に立ったところ、
恋や自己意識や社会へのちょっと遠い憧れのなか、悲しみ、悩み、やるせなさに、もやもやするもんなんだよ、もやもやしていいんだよ、と言ってもらった気がしていた。
部活でヘロヘロになりながら、いつもこの曲をまとっていたような気がする。
部活後、校庭の水飲み場でカラカラに乾いた口を潤しながら、汗をふいているシーンとともによみがえるのはこの曲。
僕の青春の入り口と重なっていた。
加藤和彦の作曲がとてもよかったし、ありたあきらの編曲もよかった。
曲が始まると、その青春ドラマの世界に抱き込まれる感じがする。
悲しくてやりきれないの作曲・発売背景
この曲の制作過程については、当時のレコード製作の担当者で後のFuji Music Group, Inc.代表取締役会長、日本音楽出版社協会顧問(元会長)であった朝妻一郎やその他がそのいきさつを紹介しています。
「イムジン河」発売中止
直接的な原因となったのは、「帰ってきたヨッパライ」に続く次のザ・フォーク・クルセダーズのシングル盤として発売予定となっていた曲「イムジン河」が、東芝レコードが発売予定前日に突如発売取りやめにしたことで、急遽新曲を作らねばならないという状況が生まれからだった。
発売中止の理由は政治的忖度?
レコード発売中止の理由については、政治的配慮によるものだというのが当時の風評だった。
僕はだいぶ後になってから知った。
当時、反戦・反差別といった社会的メッセージを歌う歌がいくつも放送禁止になっていたし、
「イムジン河」の原曲の作詞の内容との違いなどへの配慮もあったのかもしれない。
この点については、別の機会にふれるかもしれない。
新曲対策と「イムジン河」の影響
朝妻氏によると、新曲作成のために加藤和彦氏を事務所につめこみ、数時間でできた曲を、もう初老のサトウハチロー氏に持ち込み、そこでできあがったのがこの曲だとのこと。
したがって、加藤和彦氏が「イムジン河」の曲の雰囲気を多分に残した曲になったことが語られている。
当時は「悲しくてやりきれない」の曲を後から演奏すると「イムジン河」の曲になる、といった都市伝説さえ生まれた。
サトウハチローの詩
サトーハチローはどんな作詞家か?
「悲しくてやりきれない」の作詞を誰に依頼にするのか?
そのときすでに60歳半ばをすぎた有名な詩人であるサトーハチローに作詞を依頼したのは、サトーハチローの社会性への期待もあったのではないだろうか。
サトーハチローはどんな作詞家だったのだろうか。
サトーハチローは今でも多くの人がその歌詞に触れている。
童謡では、「ちいさい秋みつけた」 、「かわいいかくれんぼ」 。
今でも聞く機会は沢山ありそうだ。
中でも僕の心を打ったのが「もずが枯木で」という唄だ。
もず
もずが枯れ木で 鳴いている
おいらは藁を たたいてる
綿びき車は おばあさん
コットン水車も まわってる
みんな去年と 同じだよ
けれども足んねえ ものがある
兄さの薪割る 音がねえ
バッサリ薪割る 音がねえ
兄さは満州 へ行っただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ
「もずが枯木で」 作詞:サトーハチロー 作曲:徳富繁 1938年
この詩の原作は、1935(昭和10)年に「百舌よ泣くな」という題で公表されている。
当時は「もずよ寒いと 泣くで無え 兄さはもっと 寒いだぞ」と弱音を吐くなというととれる言葉づかいになっていた。
当時の政治的な配慮があったのかもしれない。
戦後、差し替えられた「もずが枯木で」では、もずに「寒いんだったら鳴いて良いのだ」と唄い、それが自然なのだという思いと、もっと寒い思いしている兄に寒くて大変だよねと心を寄せる詩になっている。
そんな寒い思いをさせられていることへの不条理さの告発も含まれているように感じる。
1945年、サトーハチローは、弟を広島の原爆で失っている。
僕にとっては
「悲しくてやりきれない」という曲は、なによりもまず、みずみずしい青春の葛藤の曲として思い起こされる。
初めて聞いた頃の生活体験や当時の感情と混じっているからだろう。
同時に僕たちの社会はまだまだ未熟であり、なにか変えて行かなくっちゃねというサトーハチローのメッセージも何かしら感じ取っていたのかもしれない。
サトーハチローは、この曲の発表後の5年後に70歳で世を去っている。
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