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【音楽ことはじめ】5年生まで、僕は音符とは何か知らなかった。

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5年生まで、僕は音符とは何か知らなかった。

ベルリン市立交響楽団
ベルリン市立管弦楽団(コーンサートハウス:ジャンダルメン・マルクト・ベルリン)

僕の小学校のころの話し。
僕は本を読むのが大好きで、小学校の4年生ごろには、当時はやっていたラーメンをおやつに、毎月配本される少年少女世界文学全集なんかを寝転がって読む、小太り少年になっていた。
ところが、短距離走は早く、成績もまあまあ上位の方だったので、自分をそこそこいい少年だと思っているようなちょっとおちょこちょいなお子様だった。

ただし、二つのことは苦手だった。第一は、水泳、小学校の6年生に決意して飛び込むまでは、金槌だった。
夏休みに水泳教室で学んだ弟に、大きな差をつけられ、それまでは、弟の露払いをして、見本となってきた兄としての面目を失った。

もう一つが、音楽だった。
通信簿はいつも五段階評価で2である。
かなり厳格な父にみせても、父は音楽の成績なんてと思うような人であったし、母親は何もいわなかった。

歌を歌うことや音楽を聴くこと自体は好きだった。
夕方にユーモレスクやふるさと、きらきら星などが流れてくると、夕日なんかみながら哀愁にひたって、「いいなあ」なんて思って、口ずさんでいた。

だから僕は音楽は嫌いなのではない。
しかし、僕の学校生活の中でお音楽の時間はときたま訪れる異世界であった。
自分の歌い方や音楽の好みについては、そんなもんかとも自覚せず、無関心だった。

そんな僕だから、リコーダーやハーモニカその他の楽器の演奏などまったく関心がなく、いや、宿題となった練習も完全にサボった。
よく考えると、練習してスキルを積み重ねるという発想自体がなかったかもしれない。

他の学科やその他の点でも気まぐれでサボりがちだった自分をまだ意識さえしていなかった。これは、僕の人生にかなりムダな時間を費やさせる原因となるのだが、ここでは割愛。

音楽を知らないことを知る

ある日、音楽の時間、新任の音楽の先生がクラス全員で合奏すると言いだした。
僕は、何の疑問もなく、小太鼓のパートを担当することになった。

演奏が始まり、短い曲はすぐに終わった。

それから、先生は、僕に向かって、太鼓をたたくところが違っている。どこでたたくのか分からないか、といったことを聞いた。

それから、太鼓の演奏者を変えて、僕は歌を歌うパートを担当することになった。

僕は焦った。なんと、太鼓とは勝手にたたけばよいのではないらしい。そういえば、目の前の楽譜には、音符や休符が書かれている。とはいえ、当時はそれを音符や休符として認識してたかはとても怪しい。

僕は、自分が何かを理解していないこと、演奏には何かルールがあること、それを知らないことに先生が少なからず、驚き、これはまずいと思っていそうなこと、を意識した。

僕は、自分を優等生と思っていたので、音楽という学科を理解していないまずさを、意識した。関係ないものが、自分の欠陥として意識されるようになったのだ。

この音楽の先生は母と面識があった。きっとこのエピソードにまつわる連絡が届いたのだろう。
おそらく、「僕くんは、音符や休符をまったく理解していないようですが」なんてね。
わざわざ、ご心配の連絡があったのではないだろうか。

しばらくして、母が、近所の数人の男の子たちと、ご近所のピアノの先生のところへいって、音楽の勉強をしてみないかと言いだした。

音楽理論を習う

僕は、これは、自分の問題を解決するチャンスと思い、承諾した。
そもそも、習い事というのは、お子様を大切にするシステムであり、
大人に気をつかってもらって、がんばれば褒められる環境だから、
エセ「優等生」である僕には、居心地がいいものという思いもあったのだろう。

教室は、ピアノの先生のご自宅であった。
若い女性で、幼いお子様もいるようだった。

僕たちは、挨拶の後、ピアノの前にならんで、
学校の音楽の時間に習っている曲を皆で歌った。

僕は、高音部を裏声で歌ったような気がする。
そういうのが良い歌い方なのだ、と思い込んでいたので。

先生は僕たちの元気さを褒めてくれた後で、
楽譜について説明をしてくれた。

リズムを取りながら、
音符と休符
全音符、全休符、二分音符、二分休符、四分音符、四分休符、八分音符、八分休符、……
リズムをとって声をだしながら、パーン、ウン、パパーン、ウン、パパパパーン、ウンなんて。

「あっ」と思った。
これは分数の世界だ。

僕の中で音楽と算数がつながりだして、算数すきな僕には馴染みのある感覚が生まれた。

音楽の時間に太鼓をたたけなかったことは、算数のルールとして飲み込んでいなかったからだ。
大の苦手科目が得意科目になるかもしれないという、変な確信が生まれた。

楽譜が、分数に見えてきたとまでは言えないが、見知らぬシミが有意味な記号に変わり始めた。

なんだ、そうなの!
そうして、僕は元気いっぱいになって、ピアノ教室を後にした。

その後ピアノ教室は数回通ったのだが、友達がそれほど関心を示さなかったことや、父の反対があって、立ち消えになってしまった。

ギターとの出会い

しかし、僕には音楽はこれまでの全く意に介さない無関係なものから、ようやくその世界の入り口に入りかけたものになっていた。
僕は、当時のグループサウンズからフォークソングへ、青年文化の勃興という時代環境にも強く影響されていた。

そして、ラジオでポップスを聴くことをきっかけに、僕は、軽音楽に興味を懐くようになる。
曲はポール・モーリアの「恋は水色」。

僕は、ギターを購入することになる。

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